終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

1945年(昭和20年)8月15日の終戦から、今年で73年。時間は何も知らないように、戦争を体験した人々の年を重ね、同じように、戦争を知らない人々の年も重ねていきます。

大正15年生まれだった私の祖母も、今年の4月に他界。そのお葬式ではじめて、祖母の持っていた古い写真たちの存在を知りました。

洗濯をする祖母

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

祖母が何歳のときなのかは不明。景色は少し変わっているけど、家の裏手のほうだとなんとなく分かる。

大正の最後の年、1926年(大正15年)生まれの祖母は、4人兄弟の上から2番目。

これもお葬式のときに知った話ですが、15才くらいのときに両親を亡くした祖母は、炭焼きや花切りなどをして生計を立てながら、2人の妹の面倒を見てきたそうです。1番上にはお兄さんがいましたが、戦死しています。

私は小さいときから、隣の家に住んでいた祖父母の家にしょっちゅう行っていて、学校が終わると大体祖母と一緒でした。

昔のことを聞いたり、いろいろな話をしていたつもりでしたが、祖母が語りたくなかったのか、私が小さかったからなのか、知らないことは山のようにあるのだな、と亡くなってから知りました。

筆者

小さい頃にほんの少しですが、それだけでも、話を聞いておいて、よかったと思っています。

算数が得意だった祖母のお兄さん

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

祖父母の家の仏壇の上。

祖父母の家の仏壇の上には、軍服を来た祖母のお兄さんの写真と、時の内閣総理大臣 佐藤栄作 から贈られた表彰状(=勲記と言うそうです)が飾られていました。

祖母と一緒に、仏壇に手を合わせたあとは、お兄さんの写真にも手を合わせてきたせいか、今でも習慣のようにそうしています。

家から歩いて5分くらいのところにある地域のお墓には、この地域で戦死した7人の名前と没年が刻まれた慰霊像があり、そこにもよく祖母と二人で歩いて行っては、手を合わせていました。

たぶん数えるほどですが、私の家はすぐ隣なのに、なぜか時折祖父母の家に泊まっていた私は、ある夜に祖母と布団に入りながら、お兄さんの話を聞いたときのことをよく覚えています。

勉強がとてもよくできて、特に算数が得意だったというお兄さん。

先生の人数も少なくなっていた学校で、先生の用事があるときは代わりに教えろ、と言われて、「え〜そんなん弱ったじょ〜」(=うわー、それは困ったなー)と言いながら、いろいろな学年の子たちが集まる教室で、勉強を教えていたそうです。

祖母はお兄さんのことがとても大好きだったんだろう、と思います。

小さい頃には、赤紙と言われている召集令状も見せてもらった記憶があります。お兄さんが何歳のときだったのかは、分かりません。そうして徴兵されたお兄さんは、ビルマへと送られ、二度と家には戻ってきませんでした。

なにも語らなかった祖父

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

出征する前の祖父。年齢は分からないけど、とても若そうに見える。

祖父は、1928年(昭和3年)生まれ。

私が小さい頃は、まだ土建業の仕事をしていて、夕方ごろに帰ってくると晩酌をして、いつも顔を真っ赤にしていました。

子どもながらにそんな祖父がちょっと怖かったのか、祖母ほどに話をした覚えはありません。

そんな祖父も、徴兵されたそうですが、当時まだ若かった祖父は、終戦も近くなったころの徴兵だったため、外地へ送られることはなく、内地にいた、ということでした。

この話はおそらく祖母から聞いたように思います。

一度、祖父にも「おじいちゃんも戦争に行った?」と聞いたことがありますが、酔っていたせいか、話したくなかったのか、子ども相手だったからか、赤い顔で「そうやそうや」とか「行ったんやでー」というような言葉を繰り返すばかりだったことを覚えています。

8年ほど前に他界した祖父が当時、どこで何をしていたのかは、もう分かりません。

写真は、祖母の持っていたアルバムに貼ってありました。どことなく祖母のお兄さんとは違うような気がして、父と伯母に聞いてみたところ、しばらく写真を眺めた伯母が、たぶん出征する前のおじいさんじゃないか、と教えてくれました。

ちなみに、母方の祖父には、私が高校生の頃に、戦時中のことを聞いたことがありました。母方の祖父も徴兵されましたが、外地には送られず、九州のほうの捕虜収容所にいたそうです。

言葉が通じなかったけど、時々バナナをあげたりすると外国のタバコをくれた、と話してくれ、「戦場のメリークリスマス」のような日本兵と外国人捕虜の交流はほんとうにあったんだ! と思ったのを覚えています。

赤い空を見た祖母

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

祖父母と伯母、父。

祖母のお兄さんが戦死している、ということと、もう1つ、当時の小学校の教頭先生(たしか私が小学校低学年のときにもう定年退職されたか、他の学校へ移られた)が広島の出身で、原爆についての話をよく聞かせてくれたことがあって、私はよく戦争についての本を読んだり、祖母にもいろいろなことを質問していました。

ある夏休みに、読書感想文を書くため、祖母の家で本を読んでいると、祖母が「そんな怖い本は読んだらあかん、やめときな。」と言ったことがあります。その本は、「あの夏、僕らは戦争の中にいた」というようなタイトルでした。(検索してみましたが、見つかりませんでした)

きっと祖母には、あんなに辛い時代を、私たちに過ごさせたくない、過ごさせることにならなくてよかったーそういう想いが強くあったのだろう、と思います。

祖母の家のあたりは、田舎で空襲などはなかったそうですが、夜に空を見上げるとたくさんの爆撃機が通り過ぎていったこと、あるときは遠くの空が真っ赤になっていたことなどを話してくれました。夜になっても空がずっと明るかったときには、「おもて(外)にたらいを出して夜でも洗濯ができた」ほどだったそうです。

この写真も、祖母のアルバムから見つけたもので、右下に写っているのが父です。

筆者

父は、1954年(昭和29年)の生まれなので、おそらく昭和35年くらい、終戦から15年ほどの写真ではないか、と思います。

語り手をなくした写真たち

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

いつの写真で、誰が写っているのか不明。

これは、アルバムに貼ってあったものではなく、学校でもらう集合写真などのように、厚紙のようなものに写真が貼り付けてあるものです。

おそらく尋常小学校の、卒業式なのか入学式なのか、なにかの写真だと思います。一番上の写真もそうですが、みんなセーラー服や着物を着ているので、戦前だろうと思われます。

祖母が写っているのか、あるいは祖母のお兄さんや妹たちも写っているのか、分かりません。上の写真では後ろに国旗が掲げられているようですが、この写真にはありません。

筆者

刻印から、隣の町にあった写真館の名前が連想できるので、もしかしたらその写真館で作られたものかもしれません。
終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること
この写真は、さらに古そうな写真です。最前列には、高齢の方たちが、後ろへいくと若い人たちが写っているようです。

最前列の右から2番目におばあさんが一人写っているようですが、あとはみな男性のようですね。地域の集まりなのでしょうか。後ろの建物は、窓の下が少し違っていますが、前の写真たちと同じ学校のようにも思えます。

筆者

祖母のお葬式の日に、見つけたこの写真たち。いつなくなってしまうか分からないな、と思い、写真に撮りました。

語り手を探す写真たち

終戦から73年、語り手をなくした古い写真たちが語ること

祖父のお母さん

この写真も、誰だろうと聞いてみたら、父は知らなかったようですが伯母が、祖父のお母さんだ、と教えてくれました。大柄で、とても快活な人だったそうです。

祖父母はもう、残された写真たちについて語ることはできませんが、その子どもたちが、覚えていることをその子どもたちに語り、全く僅かですが、私が曽祖母について知ることになったわけです。

祖父母が今の私くらいの年齢のとき、どんな時代だったかー。祖父母が子どもの頃、どんな時代だったかー。

今から73年前に終わった戦争。たったの73年前、だと私には思えます。「戦後が戦争だった」という人たちもいます。

今年の8月9日、長崎の平和祈念式典では、国連の事務総長では初めて、アントニオ・グテーレス氏が出席。その演説でこう語りました。

「核保有国は、核兵器の近代化に巨額の資金をつぎ込んでいます。2017年には、1兆7000億ドル以上のお金が、武器や軍隊のために使われました。これは冷戦終了後、最高の水準です。世界中の人道援助に必要な金額のおよそ80倍にあたります。

日本は、唯一の被爆国ですが、核兵器禁止条約に参加していません。
私たちにできることは一体、何なのでしょうか。

みなさんは、おじいさんやおばあさんの昔の話、知っていますか?